カリフォルニア通信

胸が踊るような何かを、カリフォルニアの空の下から。ロードバイクと写真と音楽と物理について。

本を読む:黄昏の百合の骨、その姿の消し方

黄昏、という漢字の読みを知らずに恩田陸の「黄昏の百合の骨」を読んだのは小学校高学年のときだったような気がします。

 

当時の僕は学級委員に進んで立候補するような活発な性格ながらピアノの練習に日々時間を割いており、ピアノを弾かない時間には本を読んで大抵はひとりで過ごしていました。

青い鳥文庫の本を図書館から借りることもあればアシモフの巨編SFを衝動買いすることもあるような拘りのない読書が自分のスタイルで毎日最低でも一冊は読んでいると言って学校の先生を驚かせた記憶がありますが、その膨大な読了書籍の中でこの「黄昏」には不気味な内容と反して本の題そのものが強く記憶に残ったことを覚えています。

 

なぜ黄昏という読みを気にせずに最後まで読んだのかは今となっては疑問ですが、黄色くねむる、という字の組み合わせに、当時好きだった「放課後」の太陽の光を結び付けてそのイメージを自分の中で大切にしていました。

 

友人の数は決して少なくなかったものの、高学年になるにつれて中学受験の勉強で塾に行く者、本格的にスポーツにのめり込む者とそれぞれの道が分かれるようになり、自分のピアノの練習もあって放課後に時間があるときはひとりで読書をする機会が増えました。その頃になりそれまで何も考えずに一緒にいた仲間が違う方向を向いて歩き始める寂しさを初めて感じるようになり、学校という閉じられた空間の中で「放課後」の静寂が作る空気感、電気の消えた廊下や教室に差し込む夕暮れの光、そして読書をすること即ち他にすることがないとき、という紐づけが放課後の読書という状況そのものとそこで感じた光の色、空気のにおい、遠くから聞こえる音といった要素を包み込んでひとつのイメージとして自分の中に定着し、それがなぜかあの読み方の分からない「黄昏」という言葉に呼応したのです。

 

そして後になって黄昏の読みと意味を知ったとき、それはそのまま僕が黄昏れ時という一日の時間的区分に対して持つイメージとなり、またその時間に期待する五感的空気感となりました。

 

年を経てその頃に読んだ本の内容もほとんど忘れた頃、黄昏の空気のにおいを思い出したのは2年前、ヨーロッパを一人で放浪しているときにミュンヘンで発車間際の電車から夕陽を眺める車掌の男性を見かけたときでした。

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知り合いのいない土地で観光でもなく仕事でもなくただ歩き続ける、という楽しくも孤独な一人旅に少し疲れていた僕にとって、その何でもない光景の持つ日没間際の光は「黄昏」の印象を突然呼び起こすのに十分な濃さで、どうしようもない胸の騒めきと共にあらわれたその印象をもって瞬間的に旅に意味付けする絵具となるのに完璧な明るさでした。

 

昨晩は午前2時まで学校の図書館で勉強した後に自宅で夜明け前まで続きを片づけて、短い睡眠を経てから今朝の中間試験に臨みました。決して眠気は感じないものの普段との集中の違いからか全身の力が抜けるような心地よい疲労感があり、午後は天文学部の講演会には出席せずに自宅で淹れたコーヒーを飲みながら久しぶりに日本語の本、堀江敏幸の「その姿の消し方」を読みました。古く決して快適とは言えない安アパートの自室にも今日は冷たい風と柔らかい夕陽がシェード越しに滑り込んできて、疲労と解放感、ゆっくりと本を読める幸せ、久々に一人でいることでの微妙な寂しさ、そして堀江敏幸の持つ語り口の柔らかさに浸かりながら、どこか懐かしいような胸のざわめきと共にシェードの影がほぼ水平になるまで心ゆくまで黄昏の中読書を楽しむことができました。

 

勉強と音楽と自転車に集中しているうちにいつの間にか秋も中盤を迎え、顔を上げると葉の落ちた枝の隙間から濃い夕焼けが見えるようになりました。綺麗な装丁の単行本を閉じて棚に戻す頃には部屋着の上にもう一枚羽織りたくなるような気温。

 

黄色い葉に埋まったた地面の下で、ひとつの季節がねむりに就こうとしています。

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